
![]() | 江戸時代の終わり頃、頼朝坊の供養として建立されたもので、会見、汗入の二街道の分岐点(博労座駐車場手前、分かれ道になる地点)にあるので「別れ地蔵」と呼ばれています。 |
![]() | この附近でその昔牛馬市が盛んであった頃、牛馬の鑑札を渡す番所があった場所に信者の一人が寄進したといわれています。 |
| |||
![]() | 天保8年、この年は天下の大飢饉で大塩平八郎が乱をおこした年であり、この前後の年も大飢饉で多くの人達が横死しました。これを弔い、将来二度とこのような事がないように祈りをこめて天保12年に建立されたものです。 |
| |||
![]() | 大山寺周辺の宿坊にはかつて多くの文人が訪れました。なかでも有名なのが志賀直哉で、大正3年7月に宿坊蓮浄院に滞在。名作「暗夜行路」の終幕は、この時の体験をもとにして書かれたと言われています。この宿坊の石垣の脇に立つ地蔵こそ、蓮浄院地蔵です。 |
![]() | 大山の名水の一つに数えられる「清浄泉」の横に立つ地蔵。大山寺造営のため京都から来た大工の頭領で、建立の際の妬みを受け、その後この地で切腹したといわれる「三輪平太」の墓があることでも知られています。 |
![]() | 牛馬市が盛んな頃、日野、備中、美作から来る牛馬の鑑札を渡していた番所跡の近く、横手道から入る旧大山道沿いにある山王堂の跡地に、崩れた無数の石造碑が並んでいます。これが木ノ目地蔵。この道はブナの木が多く、春と秋は散策にもオススメのポイント。 |
| |||
![]() | 文化4年、台貫(のちの画僧嗒然)が住職となり、その後多くの書画を残したことで知られる「円流院」を望む入り口の石段脇にぽってりと鎮座するお地蔵様。このあたりにかつて弁慶が愛馬を繋いだと伝えられることからそう呼ばれています。 |
| |||
![]() | 山陰最大といわれた周囲10mもある老欅「赤松師欅跡」の近く、恵鏡院の寺坊跡に残る石垣の上にひっそりと佇むお地蔵さん。 |
| |||
![]() | 大山登山道の急坂にかかるあたり、西明院谷派の信仰の中心であった阿弥陀堂が、往時をしのばせこっそり建つすぐそばに建立。西明(さいみょう)地蔵と命名され、今日に至っています。 |
| |||
| |||
![]() | 毎年6月、夏山登山開き以降、多くの愛好家で賑わう大山。「立正(りっしょう)地蔵」は、ある宗教団体が遭難者の慰霊のため、この地に建立した地蔵です。 |
![]() | 行基菩薩が入山したとき、文珠の法に必要な水を湧かせたという言い伝えのある「利生水」の近く、静かに手を合わせて立つ地蔵さん。 |
![]() | 大山寺が隆盛を極めた約500年の昔、この地に大山寺13堂塔の一つとして建立された「釈迦堂跡」の入り口に、一人ポツリと孤独を楽しむかのように立つ地蔵 |
![]() | 北壁を望む南光河原近く、大山にある七つの池のうち、最も小さい池が「烏ヶ池」。そのそばにある地蔵が烏ヶ池(からすがいけ)地蔵です。 |
| |||
![]() | 大山寺お参りの際に目に留まる手水鉢(ちょうずばち)。蓮型青銅製で重量約825kgという大きなもので、洗心(せんしん)地蔵はその傍らにポツリ。口をすすぎ、手を洗い、心を清らかにお参りくださいとの意を込め建立されました。 |
| |||
![]() | 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・佐々木高綱。彼が宇治川の先陣以来の功によって、建久4年、因伯の守護職として赴任中、大病にかかった際、大山寺の本尊である地蔵菩薩に祈ったところ病が全治したた、え、等身の地蔵が寄進されたと伝えられています。 |
| |||
| |||
| |||
![]() | 大神山神社に行く参道沿い、いつも赤い毛糸の帽子をかぶり、少し上を向いて立っているのがこちらの地蔵。この台座には、安永7年、備中の国小野重右衛門と親子4人の法名が正面に刻まれています。 |
| |||
![]() | 大神山神社奥宮へと向かう日本一長いとされる石畳の参道から賽の河原へ抜ける入り口付近に、赤いよだれかけをした優しい顔のお地蔵さんが静かに座っています。 |
| |||
![]() | 岩山を二つに切り開いたような絶壁を容する神秘の光景こそが、信仰の聖地「金門」で、かつては修行の場となっていたと伝えられています。この地蔵は、昭和39年の台風で地蔵を祀った台座と共に流失し、現在の場所に再建されました。 |
| |||
![]() | 金門を切り開いた際に立てられたから、切分地蔵。元は相当大きなものだったそうですが、こちらも昭和39年の台風で流失。今の場所に再建されました。 |
| |||
| |||
![]() | 江戸中期の頃、会見郡の長者、吉持甚右衛門が経悟院住職・豪堅に仲をとりもってもらい寄進したもので、大山寺の数多い地蔵の中で自然石に刻まれた唯一のお地蔵様として語り継がれています。 |
| |||
| |||
| |||
![]() | 一乗院に所属していた若い僧兵・与七とその恋人・お里の悲しい物語が残る「お里の松」のすぐそばにある地蔵。ひっそりと佇む一本松が何だか寂しげな風情を煽ります。 |
| |||
![]() | 寂静(じゃくじょう)山の頂上に祀られているのがこちらのお地蔵さん。大山に初めてお寺を開いた金蓮上人を偲んで信者が彫ったもので、そばには金蓮上人のお墓といわれる五輪の塔もあります。 |
![]() | ここ寂静(じゃくじょう)山には僧兵達の遠い昔を偲ばせる場所が数多く残されています。「鎮魂地蔵」は、荒行によって神仏の霊験を感得しようとした僧兵達の鎮魂を祈って建てられたものだといわれています。 |
![]() | 南北朝時代、名和長年の弟・信濃坊源盛が僧兵をひき連れて船上山の戦いに行くとき、この坂を一息で登ったことに由来します。この坂は後に源盛坂と呼ばれるようになりました。 |
![]() | ココ大山は、その昔、戦場などの通信手段として狼煙を上げ、遠方に合図を送っていた場所。そんなことから、こちらの地蔵は豪円山の南斜面を登った高台に見張り台があったことからも、この名前がついたといわれています。 |
| |||
![]() | この場所は、大山寺中興の祖である豪円僧正の墓所となってから豪円山と呼ばれるようなりました。その頂上に祀られるのが「豪円地蔵」。豪円僧正は大山寺領のことで米子城主と争い、死を前に「吾を葬るには須く米子城を俯瞰すべき地に於てせよ 吾必ず異日米子城の没落を見せよう」と遺言したため、米子城を望むこの地に葬ったと言われています。 |
| |||
![]() | 古き名を持つ呼瀧地蔵は、豪円山に続く細い山道の中から入り込み、黒松林の中でくま笹に囲まれひっそりと立っています。 |
![]() | ココ大山は、江戸時代には、13の神仏を祀るお堂と、本坊西楽院のほか42寺院を有していましたが、栄枯盛衰のなか、明治8年の神仏分離令による廃仏棄釈の措置によって多くの仏堂などが破壊撤去され、現在は10ヶ院を残すだけに。その中の1つ、普明院に立つのがコチラのお地蔵さんです。 |
![]() | 大山寺内に現存する三体の「立像石仏地蔵」の1つ。高さ2.4mの大地蔵には、南無地蔵大菩薩と彫りこまれており、作は江戸時代末期。光背は「舟形光」で、重ねた手の上に宝珠をのせ「どんな願いでも叶えましょう」と参拝者を見ながら佇んでいます。 |
| |||
![]() | 海抜750mの山腹に、わずか十指を数えるだけの寺院宿坊を残し、在りし日の面影をとどめるこの地域。十ヶ院の一つ、観証院に立っている「観証院地蔵」の姿は、時代の変遷を静かに見守っているかのように見えます。 |
![]() | 日本海で船が難航したとき、杉の木のてっぺんから閃光がでて、方向を示したとされる霊木「灯明杉」のそばにあります。大山寺本堂のすぐ近くです。 |
| |||
![]() | 大山寺境内の鐘つき堂の横に宝珠を手に立っているのがコチラの地蔵。その隣には、大山では珍しい大山の山を「仙」と彫った貴重な石柱が建っています。 |
地蔵菩薩は大地の中に生命を育む力が蔵されているという慈悲深い菩薩で、修行僧の姿になって世に現れ、六道の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上までの六つの迷い)の人々を救うといわれています。こちらは仏教経典の中の地蔵経の本尊である地蔵菩薩を本地とし、大山古来の神霊とを結合させて大智明(だいちみょう)大権現としたそうです。 |
| |||